けんちゃんのゼロから始める新・鮨バー

寿司屋の修行なしに開業した26歳の成長日記(28歳になりました!)

NTコラム21 落合陽一さんの個展に行ってきた。「質量への憧憬」

こんばんは!

 

やった人にしかわからないとかそういうことってあると思いますし、やっぱりそれで悔しい思いをすることもあれば、それを盾に攻撃的になってしまうのもよくないなあなんて思いながら、

 

 

でもやっぱりNyotaimoriのショーは実際に見に来ていただきたい。

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東京で落合陽一さんの個展に行きました。

 

 

デジタルからの回帰を通じて、枯木に動的なものを感じるというのが印象的でした。

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ナムジュンパイクの時代の最先端だったモニターがぼろぼろになったコンクリートなどで積み上げられ、綺麗な液晶モニタがその上に置かれている展示物からは、時代の流れを感じるし、そこからの回帰や、

 

何より、対比的にお祝いの生花が展示スペースにたくさん飾られていたのも面白かった。(余談ですが、デジタルって匂いがないなあとかも。)

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人は何かを理解する時はもちろんのこと、新しいものを認識しようとする時に、流れを見たり、対比的に極端なものを見ると思う。

 

そこからの立ち位置によって、結局のところ自分という器としての脳で理解できるような言語に置き換えてみたり、感覚的に分かろうとする。

 

そして、その頭の中にある器を大きくしたり自分の形にするのが、「祈り」と表現されていたけれど、ソフトウェアのアップデートなのかもしれない。

 

これが広がっているからこそ、落合陽一さんは枯木に生を感じるという、普通に考えたら死んだ木に全く逆の感覚を持つ。

 

皿が動く。

 

この感覚は面白いです。

 

Nyotaimori Tokyoのショーの中の一つの見どころだと思っています。

 

皿が動くなんて怪奇現象出ない限り起き得ないです。

 

でも、このショーの間、当然人間がお皿になっていることで、呼吸することにより、皿が動きます。それも上下に。

 

この感覚は体感しないとわからないと思います。

 

そして、この演出後、お店で寿司を提供する時も、今までと同じ陶器のお皿を使っているにも関わらず、動的な何かを感じるようになりました。

 

作家さんの魂の込められた作品たち。

 

やっぱり百貨店に売っているような大量生産品とは違う。

 

皿が呼吸しているという感覚は動的、静的関係なく。

 

 

でもこれも、きっとこのショーを体感したことによると思う。

 

 

昨晩、岡上淑子というコラージュ作家の方の美術館も行ってきました。

 

 

これもとても面白かった。

 

10年にも満たない短い間の作品が並べられているのに、全然作風が違う。どんどん変化していく。

 

その時にルーツから辿って行くことで理解が進む。

 

いきなり最終形を見てもだめだ。

 

バレンシアガやディオールの昔の作品が飾られていた。

 

バレンシアガの重心が少しずれて傾いた感じ。昔のドレスから脈々と受け継がれていると感じた。

 

なんでもそうだなあと思いました。

 

 

流れを見て、対比的に極端なものを見て、そして「祈る」。

 

自分もそんな表現をしたいし、できるように今できることを続けていきたいと思いました。

 

それでは!