けんちゃんのゼロから始める新・鮨バー

2017年夏までに名古屋での寿司屋開店を目指す、26歳が日々思うことを書いています!Twitter: kenchansushi

無心。無意識に意識。鈴木大拙館にて。

こんばんは!

今日は金沢を観光した後、富山のお寿司屋さんへ行きました。
また訪問記を書きたいと思います。

 

今日は、金沢の「鈴木大拙館」のお話。
金沢で最も有名な人で、街の人も大拙さん程凄い方はいない、と言っている人もいたほど。

ちょっとした博物館のようになっていて、とても見所がありました。

彼は禅をアメリカを中心に海外で講演をするなどして、その心を伝えていったと言います。
そして、「無心」という言葉を使われていました。

ただ、その無心というのも、無機物が何も考えていないのとは違い、有機物が生きているのだけれど、何も考えていないという、言葉では矛盾しているかのようにしか伝えられない境地を言うようです。「無意識に意識する」という逆説になってしまうそうです。

本能的に、反射的に。端的に言うと、「スーッとやるんだ」と。
そしてこれが、あらゆる芸術、芸道において必要であると述べています。

あるがままに体験する、体感する。こういったことが理想であるそうです。

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うーーん。難しい。

何かこういう話をすると、四年前に韓国の慶州(キョンジュ)に行ったときの話を思い出します。

すごく険しい山の中にあるお寺で、その日はとてつもない暑さで、水分を失った僕は助けを求めてそこへ転がり込むように訪問しました。

すると尼さんが数名。
しかも、韓国の方だけでなく、ヨーロッパの方もいました。

そこでは、数年に一度だったと思いますが、世界中から尼さんが集まって修行をするそうです。
内容は、「言葉を使わずに生活する」。
これは、意外とできるもので、例えば洗濯をしたいときも、色々なジェスチャーとアイコンタクトで一緒に洗濯をするそうです。

そして、国籍に関係なく、段々仲良くなっていく雰囲気があるそうです。

そして、ある程度その修行をした後、そのルールをなくします。

 

するとどうでしょう。

言葉の通じない、全く違う国の人々は、全然意思の疎通が出来なくなるそうです。
そして、同じ言語を持つ人々で固まっていく。
こんなことが起きるそうです。

ここでの教訓は、言語というのも、人間の欲であるということだそうです。
少しネガティヴなイメージです。

 

言葉というのはそう言うものですということを言われました。

僕はその時、友達を作りたくて一生懸命勉強をしていました。
でもそのお話を聞いてハッとしたことを覚えています。

 

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そして今日。

この感覚的な境地。
これを言葉で説明すると矛盾してしまいます。

しかし、この感覚というものは誰しもが持ったことがあるように思います。

ダーツが面白いほど真ん中に当たるという感覚に似ているかもしれません。

 

ゾーンに入る状態。

 

そしてそれは、ハッと我に帰った途端に、真ん中に当たることはなくなります。

すごく面白い感覚です。

僕は、まだこの感覚を「無意識に意識する」ことはできませんが、その訓練をしたいと思いました。

これは、誰かに言われてできるようなことではないと思います。
教わることもできまいんだと思います。

様々な無駄を排除し、自分自身と向き合う時間を増やすことで、段々その境地へ向かうのではないのだろうか、そんなことを考えておりました。

お寿司も一つの芸術作品だと僕は思っています。
シンプルな構図は禅にも繋がることがあると信じています。

そんなこともあって、これからもっともっと様々なものを吸収していきたいと思う金沢でのひと時でした。

とても良い1日でした!

それでは(^○^)